長くなるので後半は省略しますが、この奉公市は江戸時代初期の天和・元禄のころに始まったそうで、そもそ
も市自体は戦国末期の大永年間、大内義隆の遺臣・中山弾正なる人物がこの地に寺院を建立しこの地の開発に当たったことに端を発するそうです。「知恩
報徳」というのもその人のスローガンだったとか。
さて、「破格の給金」以上に働くそうですが、当時の貨幣価値はどの位だったかといいますと、大雑把に言えば当時は今の五千倍というところでしょうか。こ
の頃の月収の平均は男95円、女35円60銭くらいだったそうです(都市と農村でかなり違うでしょうが)。米の値段は白米だか玄米だか分からないのです
が、まあ田舎のことですので玄米と仮定し、一俵を四斗としますと、当時の玄米の卸値で計算すると一俵あたり8円75銭くらいのようです。もっともこれは、
一年分の食糧として支給されたと見るべきでしょう。ちなみにこの頃の制服系女性の職業
として、バスガイドが月給46円、エレベーターガールが27円だったそうです。さらに脱線すると、
京
橋河岸通のとある路地にバラックのカッフェーあり。女給外に出で通行の人
をとらへ寄り添ひて私語する様甚(はなはだ)いぶかしければ、入りて見るに、女四、五人あり。参円にて淫
を売るといふ。
(永井荷風『断腸亭日乗』昭和7年5月1日)
本題に戻りまして、学校制度が未発達な前近代では、今日の高校・大学くらいの感覚で奉公に行く、というこ
とがありました。最近大学生の企業へのインターンてのがはやりだしていますが、奉公の変形なんでしょうか。まあ少な
くとも、昨今声高に提唱されている奉仕活動なるものよりは合理的ではあろうかと思うのです。そして、女中さんとかメイドさんにふさわしい言葉も、ご奉仕じゃなくって奉公だと主
張して、結論に代えさせていただきます。
おまけ:下関市公式サイト
(豊浦郡豊北町は合併により現在下関市となっています)
また、旧滝部小学校は歴史民俗資料館になっているそうです。
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/houhoku/kanko-7.htm |